Pre Member Meetup 2017

REGAIN

Fountain Connect CEO
Hasan Yilmaz (ハサン イルマズ)
1954年5月23日(64歳) トルコ共和国出身

Fountain Connectは、
次世代の寄付文化を世界に広げることを
目的に設立されました。

本日は私達のお話を聞きに来てくださりありがとうございます。

Fountain Connectは、次世代の寄付文化を世界に広げることを目的に設立されました。
社名には、 世界の貧困や危機に対し「支援の泉を繋げる」ことで、救い続けていくというメッセージが込められています。

世界には同じようにして生まれながらも、恵まれた人生を送れる方と残念ながらそうでない方がいます。

私は貧しい家庭に育ち、学校にも通えませんでしたので読み書きは十分にはできません。ですが、私は恵まれました。それは、これまでの人生を通して、人を支援する活動には人生を豊かにする沢山の感動や発見が詰まっていることに気づき、出会えたからです。

社会には様々な矛盾があり、やり切れない気持ちになる事もありますが、その一方で人生に大きな気づきと感動を与えてくれ、毎日を豊かにしてくれる事もたくさんあります。皆さんがその感動を感じるとき、誰かがあなたの支援によって支えられています。私は 支援活動に透明性と確実性を持たせ、世界の多くの人がその感動を共有できる未来にしたいと思い、今を生きています。

これから私の半生と、
Fountain Connectとの出会いを
お話したいと思います。

この話が終わった時、きっと皆さんにとってまた一歩、支援の世界が身近になっていると思います。長くなりますが、最後までよろしくお願いします。

私は1954年、トルコのアナトリアにある小さな農村で、長男として生まれました。

両親は16歳のとき戦乱のなかエジプトから逃げ出し、シリア、トルコと渡って来ました。当時はトルコも経済的にも不安定な時代 (※注)で、両親はようやく行き着いたトルコで農業をして日々懸命に働くも生活は貧しく、自分たちの食事もままならない日もある状態でした。

私は幼少期からそんな両親の畑仕事を手伝いながら弟の世話をしていました。ときには弟を背負い、野菜を少しでも高く売るために歩いて1時間ほどの街に出て、僅かな収入で弟の食事を買って食べさせるという生活でした。

※注 1950年代のトルコ
1950年代のトルコは、経済の不振によってメンデレス内閣への批判が高まり、1960年に軍主導でクーデターが発生。メンデレスは失脚し処刑されるなど経済、政情が不安定な時代だった。

当然学校に行くお金もなく、
ずっとそのような生活をしていましたので私は今でも読み書きは充分に出来ないのです。

特に当時のトルコは不安定な経済下で貧富の差が激しく、街にはヨーロッパ調の建造物が建ちクルマも多く走っていましたが、野菜を売りに街へ出れば私以外にも他の田舎から出てきた子供達が新聞を売ったりクルマの窓を拭いたり物乞いをしたりと、皆さんが映画などで観る光景が溢れていて、そうやって皆必死に生きていました。今でも世界にはそうして過ごす子供達は沢山います。

18歳のときに私は村を出てイスタンブールへ渡ることになるのですが、きっかけは両親から語られたこんな話でした。

「ずっと貧しい生活をさせて学校にも通わせてあげられず申し訳なかった。これまで私たちの事を話したことはなかったが、お父さんとお母さんは幼馴染で、エジプトでもそれなりに裕福な家庭で、家には車もあって学校にも行けていた。でも国が戦争 (※注)で混乱し、16歳のとき爆撃で街は破壊され、お互いの家族は死んでしまった。当時私たちは学生で、学校に残っていて爆撃を逃れたが、家も親も兄弟も失いこれまでのような裕福な生活は出来なくなってしまった。何も頼るところがなくなった私たちは命からがら国を出て1年かけてここまで来たんだ。「自分たちの人生を生きよう」と18歳のときに結婚を誓い、2人で農業をして、今の生活を始めたんだ。そしてお前たちが産まれた。私達が育った環境と違いお前には苦労をさせだが、お前にはもっと広い世界で人生を過ごしてほしい。これから先は街で仕事をして学校へ通い読み書きを習いなさい。私達のことは心配せず自分の人生を進みなさい。」

※注 第一次中東戦争
イギリス軍がパレスチナを撤退する1948年5月14日に、ユダヤ国民評議会はテルアビブにおいてイスラエル国の独立宣言を行った。そしてこの日エジプト、レバノン、シリア、トランスヨルダン、イラクのアラブ連盟5ヶ国は戦争を宣言し、第一次中東戦争が勃発した。

両親も子供を自分たちの手から離すことは悔しかったと思いますが、そうかと言ってこのまま家族4人で農村にいても生活は広がりません。私は自分が家を出る日が来ることを想像していなかったですが、数日間考えた結果「自分の人生を生きよう」と決めました。

当時のインスタブールは近代化 (※注)が進み、住宅建設や道路整備が盛んで様々な人が仕事を求めて来ていました。私は道路整備の仕事につきました。

※注 1970年代のイスタンブール br> 1950年代初めにイスタンブールは大きな構造変化を経験し、新しい公共広場や大通り、道路が市内中で建設された。アナトリアの人々が膨張するイスタンブールの郊外に建設された新しい工場の雇用を見付けるため市内に移住したため、1970年代に人口の急増が始まり、中心部から離れた村や森はイスタンブールの大都市圏に飲み込まれた。

収入はギリギリ生活が出来る程度で、少ないですが両親にも仕送りをしていたのでゆとりはありませんでしたが、「毎日仕事があり、収入を得てご飯が食べられる。」それだけで私は幸せでした。

私も含め、いま皆さんが当たり前に過ぎている日常が、日常になっていない人は世界にまだまだ沢山いるのです。

そうして2年が経ったときの夜に、寮で流れているラジオからアフリカのコンゴで起きている危機についての話が流れてきました。当時コンゴでは動乱 (※注)で街が破壊され食料や医療支援、建物や井戸の設置などが必要だと支援団体が訴えていました。そして、その支援のため作業員を募集しているという話でした。期間は最大5年で多くはないが最低限の給料と食事、寝所は団体が用意するという内容でした。

※注 コンゴ動乱
1960年6月30日にベルギー領コンゴがコンゴ共和国(コンゴ・レオポルドヴィル)として独立した直後に勃発した反乱から始まる混乱である。

これを聞いて私はこう思いました。「食事と寝所が用意されているなら、5年間で学校へ通える貯金が出来るのではないか。」当時の生活は充分幸せでしたが、学費を貯めるほどの余裕はなく、そうかと言ってこのまま読み書きがままならないのでは、もっと大きな仕事に付くことはできない。いつまでもこんな状態ではいられませんでした。

私はコンゴ行きを決意しました。
全く知らない国ですからもちろん不安でしたが、
それが若さでしょうか、進む以外に選択はありませんでした。

そう決めてからは、新しい人生に興奮したことを覚えています。イスタンブールに出てきた当時と違い自分で生きる喜びを知り、更に先を目指せることに気持ちが踊りました。

「頑張って働いて学校へ通い、もっと大きな仕事に付き両親にも楽をさせてあげたい。」
そう思うと体中からエネルギーが湧きたち、未来に向けて自信と勇気が溢れてきました。人間はときに血が体を動かすような事があると思います。私はこれまでの人生で3度この気持ちを味わいましたが、1度目はこの時でした。私は村へ帰り、両親にその考えを伝えました。

「お前は本当に頑張り屋でいい子に育って誇らしいよ。お父さんたちも国を出て人生を進んできたが、お前も同じ道を通っていくんだな。お前の人生にとって必ずいい経験となるから頑張ってきなさい。」

そう言ってくれ、その1週間後にはコンゴへ渡っていました。それが20歳のときです。

活動は5年間に渡りいくつかの地域を回る計画となっていて、現地では私のような若い者から年配者まで多くの人が集まっていました。最初の活動地域であるコンゴでは、橋や住居の建設などをしていました。現地の村人と協力しながら仕事をして村を作っていく毎日で感じたことは、これまでの日々とはまた違いました。

生まれ育った農村ではずっと自分が生きることに必死だった日々が、イスタンブールでは仕事と食事が毎日ある喜びを感じる日々に変わりました。そして、 コンゴでの日々で感じたことは「人を助ける喜び」でした。村が再建され村人に喜んでもらえる毎日が本当に幸せでした。 人を支援することで自分にもこんなに生きる意味を感じさせてくれる。この経験が自分の人生にとって物凄く大きな気付きだったと思います。

コンゴでの活動も2年が経ち、次の活動のため村を離れるときが来ました。最後の日には村人が感謝のダンスを披露してくれ「あなた達は私達の未来を作ってくれた。あなた達の支援の結果これからは自分たちで頑張っていける。感謝している。」そう村長から言ってもらえ、私たちは皆で喜びを分かち合いました。

2つ目の支援地域はウガンダでした。そのウガンダでは人生でも決して忘れることのない出来事が待っていました。

団体の活動は、到着の初日は今後の生活のためにキャンプを張るなどの準備をして、2日目から作業を始める流れです。準備はこれまでと同じように進み、私はテントで初日の夜を迎えました。その地域は小さな村が数多く集まり、それぞれの村は歩いて20分程度と近い距離にあります。

眠りに入って間もなく銃声が聞こえてきました。それもおびただしい量の銃声です。村人も私達も直ぐに外へ出てパニックになりながらも事態の把握に努めていました。長く混乱の続いていたウガンダでは多くの村が破壊され、虐殺や子供たちが拉致されて少年兵にされています。

私たちは村人の誘導で走って10分のところにある窪みへ逃げ込みました。そこはずっと続いた紛争の時代に幾度も村人が逃げたところでした。団体メンバーと合わせ100人あまりが息を潜めて隠れた僅か5分後には私達のいた村に襲撃が来ました。銃声は15分ほど続き、皆はただその時が過ぎるのを待つだけで私は恐怖に震えていました。
そのまま窪みで朝を迎え村に戻ると、もう村やキャンプの姿は跡形もなく燃え尽きていました。私たちは幸いにも全員無事でしたが、その他の村の状況はここでは話すのを躊躇うほどの惨状でした。

この襲撃により設備や物資を全て失った私達の団体は撤退を余儀なくされました。見捨てるような状況に何度も議論がされましたが、団体として物資もなく紛争状態の地域でこれ以上活動を続ける事はできないという判断でした。また村人とも話し合いが持たれましたが村のリーダーが最後に言いました。

「今の状況では私たちは残ってくれとは言えない。紛争が始まれば軍が助けに来てくれるから、あなた達は離れなさい。」この地域は長く続いた混乱が収束しているはずでしたが、再び紛争が発生してしまったのです。 (※注)しかしリーダーのその言葉は、私達が安心して帰れるようにと思って話していることは表情から察しました。

※注 ウガンダ紛争
1971年1月に軍司令官イディ・アミンがクーデターで政権を掌握、独裁政治を敷いた。相次ぐ恐怖政治で30万人以上に及ぶ国民が虐殺される。1978年にタンザニアに侵攻したが、逆にタンザニア軍に首都のカンパラまで攻め込まれた(ウガンダ・タンザニア戦争)。

帰国のためのトラックが来るまでの数日間、私たちは残った瓦礫などを使い住居を建て井戸を掘り、最低限の環境を作り上げていました。そして村を離れる前夜、これまで共に作業した仲間と今後について話していると、殆どのスタッフが早く国に戻りたいという思いでいっぱいでした。でも、私は日々活動をする傍らずっと気になっていることがありました。どこの村へ行っても私たちは団体の資金である程度の食事が用意されていましたが、支援を求める地域では食料不足や不衛生な水により赤痢やコレラが蔓延しており、命の危険にさらされている子供が沢山いたことでした。さらにこの紛争で多くの村が破壊されているため、幸運にも生き残った人たちが生活をする場所がありません。

そこで、私は「何かしたい、何かできることはないだろうか」という思いがずっと頭から離れなくなったのです。この活動に参加しようと考えたときは、学費の貯金ができるという軽い気持ちがきっかけでした。

しかし、この時から私の価値観は変わっていました。
この村でも今日明日に消えていくだろう命があり、救える命がある。「助けなければいけない」と思いました。

数日前、私達を危険から守るため「軍が助けに来る」と言った村のリーダーの気持ちが私をより前進させました。「この状況でも私たちの心配をしてくれた人の力になりたい。」と私の意思は固まり、村の再建のため残る決意をしました。

もちろん、団体も村人の多くも「今は無謀だ」と帰国を促してきましたが、私の決意は揺らぐことがありませんでした。「国に戻っても私が生きる場所はなく、ここが私の生きる場所だ」と真剣に思っていました。そうして更に3年、井戸はロープの代わりに蔦や焼け残りのテントの生地を使い、水路を作り畑の開拓を手伝い、土を固めてブロックのように積み上げ家を建てるなど一心不乱に働きました。団体は撤退しているので、食事はそれまでのようには食べられませんし、その3年の間にも何度も危険な目に遭いました。ときには私も武隊に同行して夜中にトラックで警戒に回ることもありました。変な言い方かもしれませんが、 使命感を持って生きている実感を得て、毎日が充実していました。私はこの地に生き甲斐を与えられ、心が鍛えられました。

そうして、 子供たちがキレイな井戸水を使い、畑から取れる野菜で元気を取り戻していく姿を見て自分の人生に目的を感じました。

しかし、そこで3年ほど過ごしたときだったと思います。やはりもっと大きな支援が必要だと感じるようになりました。住居や井戸が出来ても、食糧や医療不足は変わりませんし、警戒にあたる軍もそういった支援ができる状況ではありません。 命の危機にさらされている子供たちに食料だけではなく、医療を受けさせるにはもっと大きな寄付と人が必要だと感じました。

そのために一旦国に帰りもっと大きな支援を集めようと考え、村人にそれを伝えました。大人たちは直ぐに理解をしてくれましたが、ずっと危険な状況下に置かれ不安で一杯の子供たちにはそれが理解できなく「見捨てないで!」と食い下がってきました。私も必ず戻ると必死で訴えました。「もうこうする以外に支援を続ける方法はない。」追いかけてくる子供たちを振り切りトラックで村を後にしました。

「必ずもっと大きな支援を集めて戻ってくる…」これが私の血が体を動かした2度目の決意でした。

世界的な有名な支援団体は
私を受け入れてはくれませんでした。

そうして強い思いを持ち、 トルコで支援の協力を訴えにここでは名前は出しませんが、世界的に有名な団体の事務所に行きました。しかし、その団体は私を受け入れてはくれませんでした。私はこれまでの実績と思いを訴えれば受け入れてくれると思っていましたが、答えはNOで理由も教えてくれませんでした。

私は拒否される意味が分からず、毎日のように支援を訴え続けて半年経った頃、団体の幹部らしき人が出てきて私を部屋に通してくれました。初めて見るものばかりで飾られたその豪華な部屋で、彼は椅子に座り私を見つめました。私は「僕の活動に支援をしてください!」とこれまでと同じように自分の思いをぶつけました。
彼は団体の代表のようでした。半年間通い続けた僕のことを団体側も調べていたようで、彼は唐突にこう言ってきました。

「ウガンダの支援はやめてイラクに行ってみないか」

彼はこう続けて言いました。「いま世界はウガンダよりもイラン・イラク戦争 (※注)に注目している。イラクはアメリカが後方支援をしている重要な地域で、我々の団体はそのイラクで一般市民の支援活動をしている。そこでの活躍がアピールできれば私達の活動は更に大きなものにできる。あなたもそれに参加すればいい、その熱意があればきっと有名になれる。その時には私ももっと力を持ち団体資金も自由に使えるようになる。その時にその資金を使ってウガンダに支援が出来るよう取り計らってあげよう。」

※注 イラン・イラク戦争‎
1980年から1988年にかけて、イラン・イスラム共和国(イラン)とイラク共和国(イラク)との間で行われた戦争。

「僕はお金が欲しい訳でも有名になりたくてこの活動をしている訳でもありません。それに、ウガンダは今支援が必要なんです!」

私はそう訴えましたが、帰ってきた言葉は信じられないものでした。

「君は何を言っているんだ?
誰も注目されていないところを支援しても仕方ないじゃないか。
そんなことをするなんて金を捨てるようなものだ。」

私は呆然としました。確かにこの団体はイラク国民を支援しています。しかし、 支援を決めるのは活動が自分たちの注目を集められるかどうか、自分たちの影響力を高める事ができるのかが優先で、支援決定の裏では多額のお金が回っていました。

私の考えが子供だったのかもしれません。もちろんイラクの支援も必要なことですが、支援を必要としているのはイラク以外にも沢山あります。幾らかわかりませんが、支援を決める裏で回っていたお金で一体どれだけの人を助けられたことでしょう。当然私は納得がいきませんでしたが、まだ若い私にはそういった権力の世界には無力でした。

私は黙って部屋を出ました。

私は失意の底にいました。世界規模の団体が私の訴えを聞けば「使命感を持って直ぐにでも動いてくれる」と思っていましたが、その上層部では活動を盾に不正 (※注)がはびこり、幹部の私利私欲が渦巻いている現状にショックでした。

「これからどうしたらいいのか」と途方に暮れていましたが、必ずもっと大きな支援を集めて戻ってくると約束していたので、諦めるわけにはいきません。

※注 国連の不正
http://jp.reuters.com/article/usa-crime-macau-idJPKCN0S101I20151007
米司法当局が、国連への事業提案で便宜を図る見返りに約130万ドル(約1億6,000万円)の賄賂を受け取った疑いで元国連総会議長を逮捕したニュースが世界を駆け巡った。

※注 ユニセフ職員の横領
http://www.independent.co.uk/news/world/unicef-staff-misappropriate-more-than-1m-1621231.html&prev=search
ユニセフの国連児童基金はケニア事務所で最高1,000万ドルの損失を報告しており、従業員によって100万ドル以上が「流用された」と述べている。

※注 ガン基金の不正
https://www.cnn.co.jp/usa/35064756.html
米連邦取引委員会(FTC)は、親族運営の慈善団体4団体が、がん患者支援の名目で2008~12年にかけて集めた寄付金1億8,700万ドルを流用して贅沢品の購入などに充てていたことが分かったと発表した。摘発には全米50州の司法長官が連携する異例の態勢で臨んだ。摘発されたのは、がん患者支援をうたう「アメリカがん基金」など4団体。同基金など2団体はジェームズ・レイノルズ氏が代表を務め、乳がんや小児がん患者の支援を装った残り2団体はレイノルズ氏の息子や元妻が代表に就任していた。FTCによると、レイノルズ氏らは集めた寄付金の約97%を集金担当者への支払いや自分たちのための出費に充て、がん患者の支援に充てていたのは3%にすぎなかったとされる。

私は次の方法として、街中の企業から商店までなりふり構わず走り回り、直談判をしました。私は読み書きができないので何も見せられるものがありません。そんな状態では直ぐに信じてもらえることなど期待していませんでしたが、それ以外に方法はありませんでした。ウガンダに戻れば「今日明日にも命が消えていく子供たち」がいて、私は必ず戻ると約束したのですから必死でした。

2年間多くの企業や商店、裕福な個人へ働きかけ、
何とか自分でも活動できる資金を集めることが出来ました。

最初の一年は誰も私の話など信じてくれず門前払いでしたが、ある貿易会社を経営する青年、と言っても私とさほど変わらない年齢でしたが、彼が「素晴らしい活動だ」と直ぐに賛同してくれました。彼はスウェーデンの出身で、アメリカで経営学を学び、ヨーロッパとアジア文化の混ざるトルコで様々な貿易を行っていました。裕福な家庭の出身で、私とは全く違う人生を生きてきた人物でしたが、私の訴えることを真剣に聞いてくれて、初めて私の思いを受け止めてくれた彼の言葉を聞いたときの感動といったらなかったです。その後、世界にいる彼の経営者の仲間や友人が数多く協力してくれました。

私は今後の準備をしながら、支援者との話し合いを毎日のようにしました。私の生い立ちから活動への思い、「支援が必要な人にしっかり活動を広めていきたい。」そのためにこれからも生きていきたいと伝えました。

「お前の活動をずっと支援していくよ。そのために僕らも会社を大きくするから一緒に世界を変えていこう。」彼らはそう言って私を再びアフリカへ送り出してくれました。

私はその資金を使い医師や薬を集めて再びウガンダへ飛び、子供たちにワクチンを接種させたり、農業の専門家に質の良い野菜や穀物の栽培方法を教えてもらったり、豊かに育つ畑の作り方も伝えられました。私がいなかった3年余り、村は厳しい現実と戦っていましたが、私との再会を心から喜んでくれ、隣村の村人も協力に駆けつけてくれました。
活動再開から1年もすると村が劇的に変わっていき、栄養不足などで身体も心も弱っていた子供たちだけでなく、大人たちにも活力が戻り自立心が芽生え、村は活動的になってきました。その村での最後の夜に子供たちが集まりこんなことを言ってくれました。

「ハサンは私たちをこんなに元気にしてくれた。私たちは将来ハサンのように人を助けられるようになります。」

私はそれからウガンダを中心に様々な地域で村人と共に活動していきました。大きな団体ほどの組織力はありませんが、資金支援をしてくれる仲間がいて、それをいち早く現地に役立つように使え、更に村人が協力をしてくれます。当然協力してくれる彼らにも僅かながらでも収入が発生しますので、彼らからすれば「仕事」が出来て、しかも自分たちの村を救えるという非常に良い循環になります。

私の活動は今を支援するだけでなく「村の自立」を目指し、
未来に繋がる支援になっていました。

気がつけばそうやって30年余り、それぞれの地域の村人たちとは忘れられない感動が無数にありました。子供達が元気に遊び、大人たちが村を作り、食物を育て食事ができる。都会で生きる人生のように華やかではありませんが、心の通った時間で、私にとってかけがえのない時間と経験でした。

そのなかで、感動とは程遠い歪んだ現実にも数多く出会いました。私が50歳を迎えた頃だったと思いますが、あるとき、私が畑を耕しているところへ四輪駆動車が止まり、一人が私に向かってきました。この場所にふさわしくはないような雰囲気の人物でした。

「ハサンさんですね。大変な地域でずっと活動を続けてこられて素晴らしい方だとお聞きしています。」

なぜ私の事を知っているのか、なぜここがわかったのかと尋ねると、他の地域で活動している団体から私の存在を耳にし、衛星画像を使ってすぐ見つけたといいます。ずっと様々な村で活動をしていましたので、当然他の団体に出会うこともあります。それにしても空から人を探せるなんてすごい世の中ですよね。その時の私には言っている言葉の意味もわかりませんでしたが。笑

しかし、 その団体の名は私が26歳のときに必死に支援を訴えに行った団体でした。その団体の幹部が私の元を訪れてきたのです。目的は「あなたの活動を称え、我が団体へ迎え入れて共に歩みたい」と言うものでした。

彼らは私に名誉を与え、団体の顔として世界で講演をしてもらいたいと言いました。私はすぐに意図がわかりました。親交のある他の支援組織から世界の情報は耳にしていました。イラン・イラク戦争が終わり、その後のルワンダ紛争、湾岸戦争、ソマリア内戦などが世界で報じられ、これからウガンダでの活動を行うことになっているようでした。

彼らは有力者の名前を出し、「共に活動すれば世界的に有名になれる。今後の生活はこんな所ではなくもっとゆったりしたものを保証する。」と言ってきました。これからこの団体がウガンダで活動するにあたり、私のような存在は広告塔として適任だったのでしょう。
意図はそういうことだったのです。

私の活動を団体の功績として、更に団体の顔として資金が集まりやすいように政治的な利用をしようと言う意図だったのです。

なんということだろうと思いました。綺麗ごとを言うわけではないですが、私はこれまで一度も地位や名誉を求めることなど考えたことがありませんでした。しかし、彼らはそれで私が動くと考えたのでしょう。

彼らにはなぜ私が人生の3分の2もの時間をこのような活動に使ってこられたのか全く理解できないのだと思います。私は村で「いまこの瞬間」に消えようとする「命」や今日の「食事」の為に戦ってきました。私には名誉も見返りも求めず資金を提供し続けてくれる多くの企業や個人の協力があります。私も村を救える幸せ、共に活動する仲間との共感が全てで、それ以上必要なものはありません。

彼らのような団体でも、現場で活動する人たちは皆さん志を持つ素晴らしい方たちで、個人的に親交のあるメンバーも数多くいます。

人は私の考えを子供だの理想論者だと思うかもしれません。自分でも頑固者だと思いますが、そのような組織を運営する幹部の腐敗体質には目を覆いたくなるばかりで、見過ごすことはできません。なぜそこまでして自分たちの名誉を欲しがるのかわかりません。現地の惨状よりも今日の名誉と拍手を求めている彼らの言葉には全く心が動きません。

それ以降、私は彼らとの接触を一切避けて自分の活動を続けました。

それから10年余りが経ち、私を最初に支援してくれた彼が、一つの提案をしにウガンダに来てくれました。一言にウガンダと言っても私は様々な村で活動をしていて、いつどこの村にいるか決まってなかったため、私は彼を見たとき物凄く驚きました。

「なんでここが分かったのか?」と聞くと「分からなかったんだ」といいます。彼は5日間も近くの村を訪ねて私を探したそうです。そのため、彼は私を見たときにまるで迷子の子供が親と再会したときのような泣きそうな顔をしていました。笑

しかし、再会の喜びに浸ることもなく「お前の活動がそのまま世界に広げられる!」
そう言って彼はそのまま僕にわかるように、地面に木で絵を書きながら必死に伝えてきました。それがFountain Connectとの出会いでした。

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彼はこう言いました。

「お前は長年本当に素晴らしい活動をしてきた。多くの村を助け、命を救い未来を作ってきた。でもハサンがもっと支援を多くの地域に広げたいと言ってきたとき、そこには思うような資金が集まらなかっただろ? それは全て「ハサン個人」を信頼している結果で、ハサンのいないところまでは支援の手がなかなか回らない。それが、寄付の難しさなんだ。責任ある人間、支援に強い思いがある人ほど簡単に寄付はしてくれず信頼が必要なんだが、それを作ることは決して簡単なことではない。でもこのFountain Connectの仕組みは、お前の活動と同じだけの信用を作りながら世界に活動を広げられるんだ。ハサンも数多くの地域で活動をしてきたが、そうは言ってもアフリカのまだごく一部で、世界ではまだまだ支援を必要としている人がいることはお前がよく分かっていると思う。」

私は、これまでにもっと多くの人たちを助けたいと何度も思いました。もっと多くの地域、アフリカだけではなく世界には紛争や災害で置き去りにされた人々や恵まれない人たちが沢山います。しかし、それほど資金は集まりませんでした。彼らは「私の活動」に協力してくれるのであって、「私がいない」地域の支援には簡単にはお金を出してくれませんでした。彼らは都会で嫌というほど組織の腐敗を経験してきたのだと思います。過去に私に接触してきた団体のように、活動を世界に広めるにはそれ相応の資金と組織がいることはわかります。しかし、その影で様々な無駄や不正が起こっているのが現状で、それが真剣に寄付を考えている人を躊躇させています。

寄付を躊躇する人たちは、ある意味で
本能的に人間社会の事をよくわかっていて、
その上で「自分たちの寄付をしっかりと役立てて欲しい」
と願っており、「どうなるか分からない支援は出来ない」
とハッキリとした意思を持っています。

それは至極当然なことです。

その日、彼とは朝まで語り合いました。これまで40年近くアフリカで活動していた私には、世界で急速に広がりを見せているこの新しい技術が理解できず、多くの時間が必要でした。彼の会社は私と出会ったあとも成長を続け、1990年代後半には新たにアメリカで情報通信の会社を立ち上げ、現在このような新しい技術の開発を行うまでになっていました。それから10日間様々なことを話し合い、私の希望は確信を持ったものになりました。

世界には支援をしたいと思う人が沢山います。そして支援を必要とする人たち、支援を企画する私のような人間も沢山います。しかし、寄付や支援に関わる団体などへの根深い不信感が寄付活動の成長に悪い影響を与えていました。それが、Fountain Connectの発足で確実に世界の寄付活動を変えられると確信したのです。

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そして10日後に彼が帰国するときには、私の中にはFountain Connectを通して確実な未来が見えていました。 寄付が無駄なくシンプルになり、なおかつ完全な透明化を実現した活動として世界の人が不信感なく参加できる。

支援を利用して権力を持つ者も現れず、極めて民主的に寄付活動が行えるこの新しい仕組みは、全ての支援者が支援の実感をし、
積極的な気持ちで世界の寄付活動に参加をしていく姿が見えました。

彼の話すFountain Connectに私がこれほどまで確信を持ったのは、彼が私の活動を信じてくれた最初の人物で、その後およそ30年に渡り支えてくれた人物だったからだと思います。30年人を信じ支え続けるということは並大抵のことではありません。

例えあなたが寄付に高い意識を持っていたとしても、実態が見えにくい活動に30年間お金を送り続けることは無理だと思います。彼はそれをしてくれた人物でした。私の活動には広報も何もありませんので、活動の証拠となるものは私が何年かに一度帰国した際に見せる僅かな写真だけです。それだけで私の活動を理解し、支援を続けてくれました。

そして、もう一つ私の気持ちを進ませたのは、そんな彼の目に「熱」を感じたからです。スマートな佇まいで権威的な人間が発する冷徹な目ではなく、新しい未来を必死に切り開こうとする者が発する「熱のある目」です。私が30年ほど前に支援を訴えるため、様々な団体や企業を走り回っていた時にもこのような目をしていたのかもしれません。だからこそ彼も私を信じてくれたのかもしれません。

この話の冒頭に、社会には様々な矛盾があり、やり切れない事があると言いました。私もそれなりに経験し、希望を持ち続けることが困難な時もありました。しかし、人を支援することを通し多くのことを学び、村の成長に私の人生が救われました。自分の人生を自分だけのものと思わず、人のためと考えてみると何か新しいエネルギーが湧きます。

私には支援を続ける使命があると感じ、血が体を動かしました。これが3度目の決意です。私もいつかは動けなくなる日が来ます。しかし、Fountain Connectの活動は間違いなく新しい寄付活動として後世に残るものになります。

そして、2016年9月に
Fountain Connectの準備が始まりました。

これまで私を支援してくれた多くの方、また外部の方にもFountain Connectのプロジェクトの実現へ向け多くの意見交換をしてきました。支援する側はどんな情報を必要としているか、逆に支援を企画する側はどれだけの情報を提供するのか、寄付活動に透明性と確実性を実現すべく話し合いました。

その結果、実は最も大切なことは支援をする側とされる側のミスマッチ (※注)を無くすことでした。支援をする側のエゴとならないように、過去支援をしてきた村の人や、その他でも支援を受けた経験のある人達に意見を聞き、支援を受ける側にとって自分達で守っていきたいことは何なのか、彼らの文化や尊厳を守るためには、宗教的なことを含めあらゆる事を理解する必要があります。また物資の援助も善意で送られるものが現地の状況に合わなかったり、過剰に送られたりするなどのミスマッチが数多く起こっています。

支援をする側もベストな支援をしたいはずです。今思い返すと私も若い頃は気持ちが先行してしまい、支援と言いながらも自己満足な行動を取ってしまっていることもありました。いまのこの活動をエゴだと言う人もいるかもしれません。しかし、大切なことは必要な人に必要な支援をし「自立」を目指すことなのです。そのために、支援を求める側が正確に支援内容を訴える仕組みや確実に機能をさせる仕組みなど、世界のどのような地域のどのような人が支援を求めても世界中の人が理解できるように、Fountain Connectとしての指針を作りあげました。

また、Fountain Connectプロジェクトの特徴となる「透明性と確実性の実現」には、こらからの社会基盤の基本を担う次世代の技術が最大限に活かされています。それについてはパートナー達が素晴らしい仕事をしてくれていますので、別資料を御覧ください。

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それらの技術を形にしたことで、寄付活動が組織の権力などに影響を受けること無く、非常にシンプルに寄付の提供を呼びかけられるようになります。

※注 支援をする側とされる側のミスマッチ
「第5回アフリカ開発会議(TICA5)開催中の横浜市で2日、アフリカ支援を行ってきた日本のNGOによるシンポジウムが開かれ」、活動の経験から得られた教訓のようなものがNGOスタッフにより紹介されている。
「アフリカの人々だけで維持できる仕組みの構築が重要」とか「『援助漬け』で無気力になった人々を立ち直らせるのは難しい」などと、援助から撤退した後のケアが重要であると支援した側のNGOがコメントしている。まるで、支援された側がいけないと言っているようである。本当にそうなのであろうか。
支援する側の人たちは、まず現地の貧しさや悲惨さを見て、どうにかしようと立ち上がり、募金や政府のカネを元にスタッフを現地に送ったりする。その想いや、その熱意は、大切なものだと思う。だが、派遣されたスタッフが、現地の政治・経済・文化・言語といったものをどれだけ理解しているのかと言えば、心許ない場合が多い。

支援する側は、生きることに必要な衣食住に限定した上で、支援される側を助ける。そして、緊急性がなくなったら、スパッと活動を終えればいい。しかし、その後も技術指導やら何やらと名目をつけて、だらだらと活動を続けることが多い。募金や政府のカネを有効に使い切る「ため」の活動や、スタッフの賃金を払う「ため」の活動に変貌していく。

当たり前のことだが、その国やその地域のことは、そこでずっと暮らしている人が一番よく知っている。ならば、緊急支援が終わり、社会や生活を改善していくときに重要なのは、そこで暮らす人々に対する教育だと言える。とはいえ、不思議なことに、建物の建築など形の見えることにはカネが集まり、人の教育という結果が定かでないものにはカネが集まりにくいと、長年NGOで活動する方から聞いたことがある。
社会が内部から自然に発展していくことを内発的発展と言う。支援する側が外部から人や物を支援される側に送りこむことも、緊急時には必要であろう。だが、ある時期を過ぎたらやるべきことは、支援される側が内発的に社会をどうにかしていこうと考えるような啓発=教育が必要になると思われる。
教育の分野で支援を継続することなく、人や物を支援される側に送りこんだあげく、「せっかくの支援が無駄に」などと言っているのは、支援する側が「私たちの支援は失敗しました」と敗北宣言をしているに等しい。決して、支援される側が悪いのではない。支援する側のやり方が悪いのである。

寄付活動が世界に点在する団体それぞれで独裁的に管理する時代は、Fountain Connectのスタートによって終わりを迎え、寄付を求める人と寄付に参加する全ての人が自律したFountain Connectを通して全ての情報を交換します。こうした仕組により 不正な寄付集めや虚偽の活動など、善意の影で不正を働くものを一掃します。

Fountain Connectを通して行われる寄付活動では、一部の者が寄付活動を操作することはなくなり、「支援が確実に行われ、その実感ができる世界」として、寄付が必要な人に無駄なく届く寄付活動が実現します。これまで様々な団体で不正や無駄が起こっていたのは、支援活動を結果的に「人任せ」にする仕組みだったことが原因と言えます。

支援をする側に人任せにする意図はないと思いますが、寄付をしたのちの現状を知れない寄付世界の仕組みが問題です。過去、寄付に纏わる様々な問題を生じさせながらも、寄付の仕組みを現段階まで広げたという一定の成果はあったかと思います。しかし、私たちが今後実現する世界は支援活動を人任せにせず、「世界が全員参加」する完全に民主的な新しい世界となります。

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こうして今後の寄付活動は、政治的な影響を全く受けず一部の権力に動かされることもない、透明性のある確実な寄付と支援が実現して、世界の様々な問題を自分たちが解決できる世の中となります。そうして世界共通の透明性ある寄付文化が始まることで、人を支援する活動には人生を豊かにする感動や発見が詰まっていることを感じられる世界が始まります。

このような思いでFountain Connectはスタートしました。

これが、私が本日伝えたい事の全てです。
今日は長い時間お聞きくださりありがとうございました。